子どものころから一番近くにいて、一緒に成長してきた人。
それは私の弟です。
成長というと、とても大袈裟。
当時は何も思わなかったのですが、子どもの1年って普通に過ごすだけでも、沢山の発見や出来事があったりして成長につながります。
多くの時間を共に過ごしながら、一番近くで成長し合えた関係は、今は距離と比例して希薄化しているようにも思います。
ひらがな表記の「きょうだい」
ずっと気に放っていたのですが、新聞やテレビなどの主要なメディアでみかける、ひらがな表記の「きょうだい」。
私が小学生の時には「兄弟」と習いました。
「兄弟」だと、兄と弟の組合せに限定されてしまうこと。
兄と妹、姉と弟も「きょうだい」。日本語にも多様性というか限定しない使い方を求められているのかなぁ。
私の乏しい想像力で、考えてみました。
当事者は気にしないと思うのですが(気になっている方、ゴメンナサイ)、 発せられた言葉の内容が反映されてしまう言霊のような力があると考えれば、言葉をポジティブな方向に変更していくのは良いことなのかもと思います。
大切な仲間「きょうだい」
私と弟。
2歳差の私たちは、年齢が近いこともあっていつも一緒に行動していました。
言うなれば、弟は私のまねばかりしていました。
両親は共働きで、休日ともなれば、家業である米作りを主とした農業をしていて、ほとんど遊んでくれはしませんでした。
連れて行ってもらった畑や田んぼ、山が私たちきょうだいの遊び場。
竿から作った釣りなど、昭和末期の生まれですが、結構自然には恵まれて育った方だと思います。
子どもの頃は、弟についてこられるのが、恥ずかしい時もありました。
いつも一緒で、友達にからかわれたり、大人からも可愛さからニコニコと「今日も一緒でいいいねぇ」と声を掛けられると、誉め言葉がまるで自立していないきょうだい2人というような気がしてならなくなることもありました。
今振り返ると、2人だったからこそ、自然の中で冒険もできたし、ちょっとした相談にも乗ってくれました。
くだらぬ何かを作るために力を合わせてみたり、いつも遊んだり笑ったり、大切な仲間だったんだなとしみじみ思います。
照れくさいけど、ありがとう
身近な人への感謝の気持ちは照れくさいのもあって伝えづらいですよね。
大人になって、それぞれの生活を持ってということになると更に、相手の生活に踏み込まないような遠慮もあって、なかなかオープンに感謝を伝えられずにいます。
昔のことを話しても詮なきこと。
でも、本当に自分に一大事のことがあって相談したいときには、私の場合家族ときょうだいが力になってくれます。
離れていても大切な仲間であることは変わりありません。
年に一回くらいはきょうだいへ「ありがとう」の気持ちを伝えてみよう。
もうすぐ弟の誕生日。秋の空をみて心に決めた出来事でした。