萌ゆる春。紫陽花の芽から金子みすゞさんの詩を思い出す。みんな違って、みんないい

暮らし

今日は朝から明るい陽射。

何となく気温が上がる予感。

洗濯をサッと済ませて、近所の公園までお散歩に行ってみました。

日中だとコートはなくてもいい陽気です。

枯れてしまったのかな

公園の片隅にある紫陽花。

初夏に咲いていた花はミイラのように残骸となって、「この木はアジサイなんですぅ」と表現しているよう。

夏に生い茂っていた葉っぱは、跡形もなくなくなってしまったので、この花のミイラがなければ、私もこの木が紫陽花だと分かりませんでした。

冬のある日、身をかがめながらお散歩していたときに、この姿を見てこの紫陽花も寒さに耐えられなくて枯れてしまったんだなと思っていました。

今日、ボール遊びを子どもたちが、この紫陽花の根元にボールを蹴飛ばしてしまい、取りに枝をかき分けていくと、「少し休んでいただけです」と声が聞こえたような気がしました。

防寒と防御

屈んでいた体を起こしてみてみると、殻に包まれながらも、息吹いた芽が出てきているではありませんか。

「この紫陽花生きていたんだね」

思わず声に出してしまいました。

そうかそうか、木の芽たちはこうやって冬眠するんだね。

硬そうな殻は寒さから身を守るコートの役割。

それから、目は黄緑でいかにも目立つから、お腹を空かせた鳥たちにつつかれないように防御の役割もあるのかもしれません。

枯れ木と思っていましたが、防寒対策と防御対策をきちんとして、じっと春が来るのを待っていたんですね。

萌ゆる春

気の早い子はいないかしら?

そうやって探してみると、いましたいました。

殻から身を破ってグーンと一つ頭を抜けた芽が。

芽という殻を破って今にも葉っぱとなりそうなこの子。

「お先に、春をみてくるわ」

他の芽よりも成長著しいこの芽は、元気なトップランナーのよう。

同じ木だから環境はほとんど変わらないのだと思うのだけれど、芽にも早いタイプとゆっくりのタイプがいるから観察すると面白いですね。

殻に包まれて、もう少し温かくなるまで待つ芽、早く春を感じたい芽、トップランナーを追いかけながら息吹く芽。

まるで人間社会みたい。

いや、人間社会が自然と同じなんですね。

すべては自然界に答えがあるような気がします。

みんな違って、みんないい

金子みすゞさんの「私と小鳥と鈴と」の詩の中の有名なフレーズ。

詩の中では鈴と、小鳥と、それから私(人間)が、異なるもの。

この世にあるものは、誰一人、なに一つ、同じものはないんだよということ。

だからこそ、みんな素晴らしいんだよ、と小学校で習ったことを思い出しました。

学童期から青年期にかけて人と比べて、こうせねばとイメージを自分で勝手に創り上げていた私は、数年前まで窮屈な日々を送っていたような気がします。

今は、だいぶ自分らしさを取り戻せました。

こうやって小さな自然を感じられることが、自分を癒す大きな薬となるんですよね。

紫陽花の芽は、素敵な金子みすゞさんの詩を思い出させてくれました。

こういうことがあるから、お散歩はやめられないんですよね(笑)

さて、我が家も春模様にしようかな~