モラトリアム人間。
私が大学に入ったころに知った言葉。
当時、流行っていた椎名林檎さんの『無罪モラトリアム』というアルバムもミリオンセラーになり1年以上ロングセラーになったこともあった時代。
社会に適合するには時間がかかることだってある。
それは罪じゃないと知ってホッとした気持ちになったのを思い出しました。
椎名林檎からのメッセージ
音楽雑誌だったかアルバムのコンセプトを話していた言葉。
「人として真面目に生きていこうとする以上、社会に適合できないモラトリアムな瞬間はきっと誰にでもあるのだから、自分自身のためにも『それは無罪なんだ』と言いたい」
当時、大学生になろうとしていた私に衝撃的なメッセージ。
大学だって、学部だって、特段好きを突き詰めて考えぬいて進もうとしていたわけではなかった私。
周りが自分の目標に向かって邁進する姿を見て、自分はこんなでいいのかと問答する日々。
今の私自身が、モラトリアムなんだろうなと半ば、社会からはじき出されていたような気持ちになっていた時期でした。
そんなさなかにロングヒットを期に耳にした椎名林檎さんの曲。
不思議な感覚に惹かれて、歌詞を読んだり、曲を探していたときに出会ったアルバムでした。
↑の言葉に励まされ、「なるほど。これは誰にでもある準備期間なのだ」と勝手に思い込んで、過ごした大学時代。
私の大学時代は、就職活動も氷河期と言われる時代の末期も末期で、上手くいかないこともたくさんありました。
正職員で就職できるだけでラッキー。
大学2年生からは本格的な企業分析やセミナーに通い始め、就職活動を開始し、応募数は50社を超えて。
面接、筆記試験、SPI、書類選考、試験のどこかで自分がはじき出されることを重ねると、社会から自分がはじかれているような気がして、落ち込んでいた日々でした。
自分の事を否定的に思っていた時代。
なんとなく気力がわいて来ずに、就職活動をしていた日々。
梅雨空のような気持ちの時に、椎名林檎さんのアルバムに出会い、「このままでも無罪なんだ」と勇気を持たせてくれた曲の数々です。
その扉をたたく音
『その扉をたたく音』(2021/2/26)集英社。瀬尾まいこさんの最新作です。
29歳にして無職。
ミュージシャンを夢見ながら親からの仕送りで暮らす宮路。
介護施設で独りよがりのギターを披露し、そこで介護士の渡部が演奏するサックスに魅せられる。
渡部の好青年ぶりと施設のお年寄りたちに助けられ、宮路の新たな扉を開くお話。
大学生の頃の私は、実家がお金持ちだったわけでもなくて、仕送りも最低限。
アルバイトをしなくては自分の生活費が足りない状況でした。
だから、宮路のようなお金持ちの気持ちは分かりません。
まして、29歳にもなって親の仕送りで生活できるなんて、想像がちょっとしにくい。
周りにいても、いいなぁとは思いつつ、自分とは異なる世界に住んでいる人かも、と思ってしまうかもしれません。
一方で幼いころに両親が離婚し、祖母に引き取られ、経済的にも大変な生活をしてきた渡部の方も、若い頃から苦労をされて大変だったんだろうな、とやっぱり自分とはかけ離れてしまう。
自分が生きてきた環境が、考え方を固定化してしまい、見えない壁を作ってしまうのでしょうか。
本書では、音楽が二人を繋いでくれます。
繋ぐといっても、宮路が渡部の吹くサックスに対する一方的な魅了によるものから。
渡部が介護施設のレクリエーションで披露するサックスを聴きたくて出入りする宮路。
それを見抜いてか、施設利用者の水木静江が雑用を宮路に依頼。
渡部の音楽を聴きたくて介護施設に通い始めたのに、水木の雑用をこなすうちに、自分以外の誰かの事を考え始めた宮路。
ラストは、宮地がモラトリアムから、社会へ飛び出そうとするところで終わってしまうのですが、
背中を押したのが音楽と、水木の練られた作戦だとしたら、宮路の自尊心を傷つけない巧妙なテクニックだったのかなぁと思ってしまいます。
こういう体験してみたかったな。
学校を卒業したら、どこかに就職をして働くしか選択肢のなかった私にとって、「自分とは」「自分が存在する意味」「どうやって生きるか」「周りへの感謝」をよく考えないまま、ポンと社会に出てしまったような気がします。
だから、漫然と働く日々を続けていたのかもしれません。
宮路のような30歳までモラトリアムというと、少し長すぎるのかもしれませんが、若い頃はそういう時間があってもいいのかもしれませんね。
じっくり自分と向き合う。
宮路は渡部から奏でられる、その音が、自分にではなく、目の前にいる人に向けられていることに気が付きます。
その音を頼りに、宮路が手探りでいろんなことに気がつき、段々と目覚めていく過程が凄く良かったですね。
自己中心的な視点から、外へ目を向け歩き始めた宮路。
介護施設に入ることが終末だと思って過ごしていたと最後に手紙で暴露してくれた水木には意外性を感じてしまいましたが、水木からの手紙はジーンと来ます。
タイトルのその扉をたたく音とは、新しい人生の始まりと一つの人生の終わりの合図だったのかもしれません。
自分以外の人、モノに目を配り、目の前の扉をたたくと新しい世界が待っているということを教えてくれた作品でした。